なぜ、私を助けた。
男にそう問うと、こちらを一瞥もせず吐き捨てる。
「思い上がるなよ。お前は青鬼をおびき出すための餌だ」
人間の若造だった。おそらく二十を過ぎたあたりか。腰に太刀を佩いた武士の装いをしており、目は糸か何かのように細いが、その奥の瞳からは燃えるような激情を感じさせる。きっと憎しみだろう。本当ならば、今この場で斬り捨てたいのを耐えているのだ。
男は金に目の眩んだ村人どもの薄汚い手から、何を思ったのか私を連れ出した。おかげで角は残っているし、切断された手足は元に戻りつつある。
「リョユウをおびき出してどうするのだ」
「殺す」
間髪入れずに答える男に、私は思わず噴き出しそうになる。
「人風情が、我らに敵うわけがあるまい」
「その只人に捕まっていた鬼が、よくほざいたものだ」
侮蔑されたのだろう。だが事実だ。
「……彼奴らは鬼鎮めの呪具を持っていた。小賢しい……でなければ、我らが人間の手に落ちるなど有り得はしない」
「それだけではないだろう」
男が細い目で、私を睨み付ける。
「リョユウは頭の切れる鬼だ。私を置いていったのには、何かの理由があるのだろう。私にも窺い知れぬ、何かが」
くくく、と男がかみ殺すように喉の奥で嗤った。
「この期に及んでまだ仲間だと信じ込んでいるのか。御目出度い頭だ。
お前は売られたのだ。同族に、仲間に。村人がなぜ呪具を持っていた? 鬼鎮めは都の陰陽師が特権だ。その呪具も、彼らが独占している。こんな僻地にあるわけがない」
「たとえ貴様の言う通り、リョユウがそれを使い、私を人間に売り渡したところで——奴には何の益もない」
「そうだ。何の見返りもない。あのような輩どもに取り入ったところで、何にもなりはしない。だからこそ、解せん」
そうして男は一呼吸、間を置いた。
「俺は青鬼を追ってここまで来た。その道すがら、お前のように鬼でありながら鬼にくびり殺された者共を見てきた。奴はな、同族に取り入りその寝首を掻く外道だ。鬼は存在自体が最悪だが、同族殺しは最も唾棄すべき悪だ!」
「——わからん。だが私には、貴様の言うようにリョユウが悪だとは、どうしても思えん……」
弱々しく首を振る。だが思い悩むのは一瞬だ。
私は、顔を上げる。
「人間。リョユウを殺すのだろう。私を餌として生かしたのなら、貴様の旅に同行する。私が、奴をおびき出してやる」
どうしても知りたかった。リョユウがなぜ私を人間に売ったのか。なぜ同族殺しを続けるのか。
「私はリョユウに問いたい。その理由を」
私の視線を、男は真っ向から受け止め。
そして吐き捨てるように、言った。
「お前の理由などどうでもいい。俺は青鬼を殺すだけだ。青鬼を殺した後は、お前を殺す」
同行の同意と捉え、私は改めて名乗る。
「私はユウヒ——いや、ユウヒは死んだ。私はこれより、ただのアカオニと名乗ろう。貴様の名は」
細い目が開かれ、昏い色を宿した瞳が顕れる。
ああ、と思い至る。
「俺は“復讐”だ。今は主との契約に従い、“桃太郎”と名乗っている」
こういう目をした者は、すぐ死ぬ。
滴り落ちるような闇がある。
淀んだ空気は瘴気を孕み、もはや清浄なる世界など何処にもない。
呪咀が呪咀を呼び、魑魅魍魎跋扈する地獄の具現——汚染棄都“長岡京”。
すべてが死に絶えた呪いの大地に、リョユウは降り立った。
濃密な黒い霧の中。そこで朗々と詠み上げられるのは、呪禁(じゅごん)。口にするのも憚られる穢れた言葉たちだ。
「春は血桜(ちざくら) 死人(しびと)に口なし 死人に目なし やさしさは失われ 色無き花に呪咀ひとつ」
呪禁を詠み上げながら一歩、一歩と踏み進める。生者が触れればたちどころに生命を消し去る呪咀の中を。一歩。一歩と。
「夏は腐氣(くさりき) 眩暈(めまい) 病(やまい) 淫(みだら) 伸ばした手は届かずに 月無きの夜に呪咀ひとつ」
その手には一冊の草子——生き血を吸って赤黒く変色し、生き肝と生爪で拵えられた、まごうことなき魔書。表紙には“呪魅草子(じゅみのそうし)”とあった。
「秋は気狂(きぐるい) 蟲の聲に耳が削がれる 血が灼ける にくしみに悶え 愛無き世界に呪咀ひとつ」
死した都の長岡京。かつてそこにあって、都の中心となった長岡宮。
鬼乙女はその中心部にまで迫っており。やがて眼前にはそれが現れた。
壁に突き立てられた大太刀。その切っ先が、壁と共に紙を——草子の一頁を貫通している。
「呪魅草子、その最後の抄……やっぱりここにあったんですね」
リョユウは僅かに緊張を解き、小さく吐息する。
長岡京。それはすべての始まり。
呪魅草子。それは命あまねくこの世界を、呪い尽くし踏み躙る青鬼に、唯一残った道しるべ。
「只今帰りました……おかあさん」
著:獏宮本 画:あらみ
▼ 鬼哭〜鬼の泪〜 https://knownorigin.io/gallery/24149000-